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ナースじつわ      画像      ナースじつわ5 男性看護師を目指すことになった最初のきっかけ。
それは中学2年生の時でした。

その頃は父・母・姉との4人暮らしでした。

その年の夏、母は体調を崩しました。
すぐに父と共に近くの総合病院を受診し、そこである診断が下されました。

「膠原病です。」

その頃はこんな病名など、聞いたこともありませんでした。

この病気について父からは
「不治の病だけど、死ぬ病気ではない」
と言われました。

同時に、実際健在している叔母が、同じ病気にかかっていた事を教えてくれました。
このこともあり、この頃は「死」という言葉は頭の片隅にもありませんでした。

父の言葉とは裏腹に、母の体調は徐々に悪くなっていきました。
そして8月上旬には、入院となりました。

病院は自宅から自転車で10分ほどの距離にあったため、ほぼ毎日母の元へ通っていました。
病院へ通う途中に通り雨にあったとき、雨に濡れた私を笑いながらバスタオルでくしゃくしゃとしてくれた事を、 今でもたまに思い出します。

入院後しばらくして、叔父の口利きで大学病院への転院が決まりました。そして九月上旬に大学病院へ転院しました。
大学病院は、自宅から車で小一時間ほどの距離がありました。

当時中学生だった私には自力で通うすべはなく、父が連れて行ってくれる日しか病院に行くことができませんでした。
だいたい月に2〜3回ほどでした。

姉はこの頃から学校を休み、母の元へ父と共に通院していました。
私はなぜかそれを許可されませんでした。

また、親戚の人が家に来るようになったのもこの時期だったと思います。

大学病院へ転院してから2度目のお見舞いの時、母の姿はいつもとは変わっていました。
ベッドに横になっていた母は、酸素マスクを付けていました。
トイレへの移動時も、酸素ボンベを引きながら行っているとのことでした。

母は
「これでも随分楽になったのよ」
と、笑っていました。

こういった姿を見ても、病状について特に父から聞かされていなかったため、そこまでは心配していませんでした。

事態が変わったのが九月の下旬。
夜中に父と姉が口論しており、その声で目を覚ましました。

階段から下を見ると、玄関で出かける格好をした3人がいました。


怒鳴る姉。

それを聞く父。

なだめる祖父。


二階にいた私には、怒鳴る姉の声のみ聞こえてきました。


「なんで今まで黙ってたの!」

「なんで話してくれなかったの!」


姉の怒鳴る言葉を聞いて、勘の悪い私にも事態が察知できました。

私はすぐに着替えて下に降りました。姉の興奮が少し落ち着いた頃に、父は私たちに一言…


「お前達に本当のことを言うと、お前達の表情でお母さんにばれちゃうから黙っとくしかなかったんだよ。」


その後、母の病名に実はもうひとつの病名があったということ、 最初に診断された時に「生死は五分五分」と言われていたことを私たちに話しました。

とにかくみんなでそのまま病院へ向かいました。

病院へ向かう途中、誰一人として話はしませんでした。
姉の、声を殺した泣き声だけが、車内に響いていました。


この時初めて「死」という言葉が頭の片隅をよぎりました。


病院へ着くと私と姉の二人は、一目散に母のいる病室へ走りました。

「おかあさん!!」

叫びにも近い声を出しながら病室へ入ると、ベッドに横になる母の周囲に数名のスタッフがいました。
お腹にスポットライトのようなものが当てられ、血のような赤いものがみえました。

母は私たちを見るなり…
「どうしたの?」
と、微笑んでくれました。

父にうながされ、私たちは病室からでました。


私が意識のある「母」の姿を見たのはこれが最後です。


次に見た母は、呼吸器につながれた状態で、意識はありませんでした。
これが母の命をかけた最後の治療になるんだと父は言いました。

ここにきてようやく事態の深刻さを感じた私は、中学の担任に母の状態を説明しました。
「どうして今まで何も話してくれなかったの??」
担任は驚きを隠せず、思わず私にそう言ったように感じました。

担任に話したこともあり、この日から学校を休んで病院へ寝泊まりするようになりました。
病院へ寝泊まりといっても母はICUにいるため、家族待合室に毛布を持ち込み、椅子を並べてその上で寝るといった状態でした。

この間は一日に一回、手指消毒の後に、ガウン・マスク・手袋・帽子を着用した状態で、 呼吸器につながれた状態の母と無言の面会をしていました。

この状態での寝泊まりが続くこと1週間。
主治医より、ついに「危篤」の宣告がされました。

この一週間で自分なりの心の準備はしていました。
いつ宣告をされても平気だと思っていました。


でも…


現実の厳しさを知りました。

自分の弱さを知りました。

そこには、友達に電話をしながら、病院の廊下で泣き崩れる自分がいました。


宣告から3日後、母は他界しました。
それは発症から約3ヶ月後の出来事でした。

亡くなる前の日の一晩は、家族4人でICUで過ごしました。
夜中に泣き疲れて眠ってた私は、ふとした時に目を覚ましました。

横にいた看護師さんは起きた私を見るなり、


「ずっと気を張ってたんだね。 マスクずれるぐらい眠ってたよ(笑)」


と、微笑んで声をかけてくれました。
なんとなく、この一言で私の気持ちを理解してくれているんだと感じ、自分の想いが救われた気がしました。

ここ数日、私はもちろんのこと、父や姉も自分の気持ちの整理に一杯で、お互いの会話はあまりありませんでした。
そんな中で自分なりに整理していたはずだった覚悟は、「危篤」の一言であっさりとすべて崩れてしまいました。
背伸びして、周りも辛いんだから誰にも頼らないと決めていた心が、ただの無力となってしまいました。

そんな自分の気持ちを、底からくんでくれたような一言を、看護師さんは言ってくれたのです。
他人の何気ない一言が、こんなにも自分を揺さぶるものだとは思いませんでした。


この一言がきっかけでした。


母が他界し、家族の生活が落ち着く頃には、私は将来、看護師になろうと思うようになったのです。
男性看護師として日々奮闘する今の自分があるのです。

【終わり】



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